国富論

企業、投資、株式が何のためにあるのかと考えさせられる良い本でした。書きたいことがたくさんありすぎて書ききれなかったので、興味ある人はぜひ読んでください。

国富論

「企業は株主のもの」という考え方があります。この考え方をつきつめていくと、「株価を上げること」になってしまいます。「企業は株主のもの」という前提を鵜呑みにした学者やコンサルタントなどが、それをどう運用するかという方法に終始している。企業のあり方はどうあるべきか、その根本的な議論が抜け落ちているのです。本来あるべき企業の目的とは、優れた商品をつくり、優れたサービスを提供し、社会に貢献することのはずです。アメリカにも日本人が考えているような理想的なコーポレートガバナンスは少ないとうことです。

アメリカの大企業を中心に、つぎつぎと過去最高益の業績をあげているといった現在の景気拡大は、見せかけのものにすぎません。リストラによる人員削減や資産圧縮によるROE株主資本利益率)の向上から、企業の株価はたしかに上がっている。しかし、世界的な失業率はむしろ大きくなっているという事実を無視するわけにはいかない。大幅な金融緩和を背景と下過剰流動性によって活性化しているが、これは勝者がいれば必ず敗者もいる、富める者はますます富み、貧しい者はますますダメになっていくというマネーゲームにすぎないのです。

当たり前のことですが、財務は経営の主役ではないのです。実際のところ、そのようなゲームに踊らされた現在のアメリカは、かつてのように新しい基幹産業を生み出すだけの力を失ってしまったのです。それなのに日本は今、会計基準や資本のグローバル化とともにアメリカを手本にしようとしています。

1、金融機関から借り入れる。2、株主から調達する、3、コツコツ蓄えてきた内部保留を使う。 どの道を選ぶか?適切な答えは明白です。 企業が顧客や従業員に対してもつ責任を果たして行くためにも内部保留はかかせません。ところが、企業がリスクを抱えながら中長期の経営を行う上で、不可欠なものであるはずの内部保留を軽んずるような言葉を、最近は多く耳にする。新たな事業展開を目指すためにも十分な内部保留を目指すためにも十分な内部保留を蓄えるという、ごくまっとうな経営手法になぜ疑問が投げかけられるになったのでしょうか?

内部保留のない新しい企業はどうすればいいのか?ベンチャーキャピタルが存在意義をもってくるのです。シリコンバレーはアメリカから生まれたが、このとき多くのベンチャーキャピタルが活躍したのはいうまでもありません。しかし、現在のベンチャーキャピタルは、長期間にわたってリスクが存在する場合に資金を出す事ができなくなってしまった。「製品を完成したら来てください」製品を完成させてから行くと今度は「売れ始めたらきてください」といった状況。これでは、ただの金融業に成り果ててしまったといわれても仕方ないでしょう。今や安全を見極めることが、アメリカのベンチャーキャピタルにとって好ましい投資基準となってしまった。リスクを分散させる手法ばかりが流行しているのです。リスクをとらないベンチャーキャピタルは、ベンチャーキャピタルの名前を返上すべきでしょう。シリコンバレーはもはや「本物のベンチャーキャピタルは死んだ」のです。ベンチャー企業もただ株式を公開することだけが目的であるかのようになってしまったのです。新しい技術創造のベンチャー企業に、資金が供給されなくなってしまっているからです。企業、産業は金融商品化してしまった。

現在では株式の時価総額を増やす事が優秀な経営者という評価につながる。そのためには、有力なヘッジファンドに株式をかわせたほうが、他の資金も流れこんで株価もあがる。株主の利益を高めるという目的を果たす上で、リストラとともにもてはやされたのは、投資判断に必要な情報を提供するIR活動。赤字の原因となっている経費や人員を整理し、将来への展望を説明することができれば、株価がすぐに二倍になっても不思議はありません。

リストラによって会社の「見せかけ上の再建」を行い、IRを駆使して株価をあげる。彼らが何かを生み出したかと言えば、ゼロなのです。アメリカにはこうした「CEOゴロ」が多い。これが現在のアメリカで行われているコーポレートガバナンスの実態であり、カリスマのごとく崇められるCEOの姿です。経営陣は目先の株価をあげるための施策ばかりをやるようになり、従業員もまた優秀であればあるほど、株価が下がると思った瞬間に辞めていきます。数字はあくまで尺度であって、目的ではないのです。株価など表面的な企業価値に踊らされない経営を目指すべきです。アメリカでは株価を上げる経営者であれば何でもよいという時代になっています。このような手段と目的の取り違えは、人々を不幸にするに違いありません。

ROEをあげるためにビジネススクールが教えたテクニックは負債を小さくするという方法。従業員を解雇したり工場を売却したりし、外注化して資産を圧縮すること。これはおかしな方向を向いた邪道のファイナンステクニックといわざるをえません。ビジネススクールで学んだMBA取得者の多くは今、株価という名の「企業価値」を最大化をしている。

ビジネススクールで学ぶ事は、あくまでも経営上の道具にすぎません。ビジネススクールの失敗は、あらゆるものをすべて数字に置き換えた事にあります。人の動機づけ、幸せといった本来は定性的なものまで、何もかも定量的な数字で分析しようとしたために、手段と目的が反対になる現象が起きるのです。 日本ではアメリカのビジネススクールへ留学することは依然として人気がある。しかし、これからビジネススクールに入る人は、ここで教え荒れる事に染まるのではなく、いかにくだらないかを知るくらいのつもりで入ったほうがいいかもしれません。

創業者は創造性には富んでいても、マネージメントは不得意であることが多い。しかし、日本の銀行は、経営者なら在庫管理や財務を勉強しなさいと誘導する傾向が強い。アメリカでは創業者でなくともエンジニアの報酬が社長より高いという例は決して珍しくないのです。

アメリカの会社にこのような話をもっていっても「どこかの日本の企業と提携していますか?」などと聞かれることは、絶対にありません。残念なことですが、ブランド志向ということに関して、日本は女子高生から大企業のトップまでまったく同じだと言えるでしょう。日本のたいていのトップは自分の責任になるようなことはやらないのです。

マーケティングによって浮かび上がってくるような新商品は、あくまでも世の中の多くが同意する最大公約数的なものでしかありません。仮に商品を手がけたとしても、資本力において歴然とした差がある大企業に勝つ事は不可能であり、ベンチャー企業の強みを活かせない。マーケットリサーチというのは基本的に大企業がもっとも売れる「物的工業製品」を生み出すために使われた手法なのです。

新しいビジネスモデルを提唱するのがベンチャー企業の創業者です。そのような起業家には、たとえ多くの人が信じなくても必要な資金を提供します。という姿勢をかつてのアメリカのベンチャーキャピタルはもっていたのです。ベンチャー企業がもつ可能性は、決してビジネススクールが教える数字だけでは把握できないものなのです。
自分がほしい、使ってみたいという主観が不可欠。

実際ビリオネアになってみると、お金で買ったものによって自分は決して満たされないことに気づきます。これは「経験してから」では取り返しのつかない事態になっていることが多いのです。本当の意味で幸せ人になった人はほとんどいないという事実があります。特別なことが日常になれば、すぐに感動を忘れてしまうのが人間という生き物です。私たちはもう一度、何が幸せであり何を人生の目標にすべきか、考え直す時期に来ているのではないでしょうか。

増補 21世紀の国富論